グランドスラム決勝戦での連敗
とうとうハレプがグランドスラムのタイトルを獲得した。
初めてグランドスラムの決勝に進出した2014年の全仏でシャラポワに破れ、2度目となる2017年の全仏の決勝で新星のオスタペンコに逆転負けを喫し、2018年の全豪ではハレプと同じくグランドスラムの決勝で2連敗していたウォズニアッキとの初優勝争いにも破れて、グランドスラムの決勝戦で3連敗。
そこに辿り着くのでさえ簡単ではないグランドスラムの決勝戦で、連続して敗退することの辛さは察するに余りあるものがある。ハレプは4度目の挑戦にして、ついにグランドスラム決勝戦での連敗という負の連鎖をついに断ち切ることが出来た。
しかし、過去を振り返るとグランドスラムの決勝戦での連敗という憂き目に苦しんだ選手が他にもいることが分かる。
歴史に残る番狂わせ
ハレプと同じくグランドスラム未勝利のまま、連敗を重ねた女子選手として最初に名前を上げなければならないのは、チェコのヘレナ・スコバだろう。ダブルスで大きな実績を残している選手だが、シングルスでも最高ランキング4位、ツアータイトル10個を獲得した強豪選手である。
18歳になる年にプロデビューしたスコバの名前は、ある大きな番狂わせでの勝利によって広く知られることになる。
19歳の時に出場した1984年、この頃は年末に行われていた全豪オープンの準決勝で当時全盛期を迎えていた同じチェコのプラハ出身のマルチナ・ナブラチロワと対戦し、見事に勝利を収めたのだ。
この時のナブラチロワは、前年1983年のウィンブルドンから四大大会を6大会連続で優勝し続けており、さらにその他の大会も含めてシングルスで74連勝中という、まさに向かうところ敵なしの状態だった。スコバに対してもそれまで3度対戦して全てナブラチロワが勝っていただけに、この敗戦は衝撃的なものとなった。
ナブラチロワを破ったスコバだったが、迎えた決勝戦でナブラチロワと並び立つ女子テニス界のスター、クリス・エバートに敗れてしまう。この年のエバートは全仏、ウィンブルドン、全米と全て決勝に進出しながら、その全ての対戦でナブラチロワに敗れており、前年の全米決勝も含めてグランドスラムの決勝でナブラチロワに4連敗中だっただけにナブラチロワが決勝戦に勝ち進んで来なかったことは、エバートに大きく有利に作用したと言わざるを得ないだろう。この勝利でエバートはグランドスラム決勝戦での連敗を断ち切り、通算で実に16個目となるグランドスラムのタイトルを獲得した。
準決勝で敗れたナブラチロワは、この時は年末開催だった全豪オープンを勝つことが出来なかったために、グランドスラムを6大会連続で制覇しながら、年間グランドスラムを逃してしまうこととなった。ナブラチロワはこの敗戦の後、さらに7個ものグランドスラムのタイトルを獲得することになるが、年間グランドスラムに挑戦出来るチャンスが彼女に再び訪れることはなかった。結果として、1984年全豪オープンでのスコバ対ナブラチロワの一戦は、ナブラチロワ本人だけでなく女子テニス界の歴史を左右した大きな番狂わせとなった。
2度目の挑戦
初めて進出したグランドスラムの決勝戦ではエバートに屈したが、スコバはその後も長くテニス界で活躍を続けることとなる。
2年後となる1986年、スコバは全仏でベスト4、続くウィンブルドンでもベスト8に進出するなど好調を維持していた。そして迎えた全米オープンでスコバに再びチャンスが巡ってくる。3回戦まで順調に勝ち上がったスコバは、ベスト16でジーナ・ガリソンをフルセットで下し、ベスト8でベテランのウェンディ・ターンブルを破り、ベスト4ではクリス・エバートに対してついにツアーでの初勝利を収めて決勝進出に成功した。
しかし、そこで待っていたのがナブラチロワだった。ナブラチロワはスコバに敗れた1984年の全豪オープンからこのときの全米オープンまで、7回あった四大大会の全てで決勝に進出しており、その支配力はいまだに衰えていなかった。決勝でもスコバを危なげなく下し、この時点で15個目となるグランドスラムのタイトルを獲得、スコバは再び準優勝者として大会を終えることとなった。
グラフの登場
2度目の準優勝の後も、翌年の1987年、続く1988年とスコバは全ての四大大会でベスト16以上に進出するなど、引き続き高いレベルのプレーを続けていた。そして年が明けた1989年の全豪オープンでスコバは3度目のグランドスラムの決勝に進出する。対戦相手は次世代の女王グラフだった。翌月に24歳となるスコバに対し、この時のグラフはまだ19歳だった。しかし、グラフの実績はすでに飛び抜けていた。
グラフは前年の1988年の全てのグランドスラムを制し、ナブラチロワがスコバに阻まれた年間グランドスラムを達成してみせたばかりか、プロ選手の出場が認められたソウルオリンピックでの金メダルも獲得し、ゴールデンスラムと讃えられる偉業を成し遂げていた。この1989年になっても全仏以外の3つのグランドスラムを制することになるほど当時のグラフの力は突出しており、スコバはストレートでグラフに敗退、3度目の準優勝で大会を終えることになる。
最後の挑戦
1990年代に入ると、スコバのシングルスでの成績は下降を始める。全米オープンで決勝に進出した翌年の1990年こそ欠場した全仏オープン以外でベスト16以上(全豪はベスト4)と高い成績を維持したが、1991年は全ての四大大会で3回戦止まりに終わる。翌1992年も全米でのベスト16が四大大会の最高成績で、スコバはシングルスのランキングのトップ10から陥落した。
そして翌1993年に、この頃グラフを圧倒する力を見せ始めていたセレスが、試合中に暴漢に背中を刺されてツアーからの離脱を余儀なくされるという大事件が起こる。突如ライバルを失った形となったグラフだったが、セレスが離脱した後、最初のグランドスラムとなった1993年の全仏でしっかりと優勝を成し遂げる。
そしてスコバはというと、この年の全豪、全仏と続けて欠場していたが、ウィンブルドンでは3年ぶりにベスト8に入る好成績を残す。そして迎えた全米オープンでは、ベスト16で第3シードのナブラチロワ、準決勝では第2シードのサンチェスを下し、実に4年ぶり、そして4度目となるグランドスラムの決勝戦に進出する。
だが決勝戦の対戦相手は、やはりグラフだった。そして結果はスコバのストレート負けであった。セレスが悲劇に見舞われた結果、グラフにもこれまでと違うプレッシャーがのし掛かったはずだが、結局、グラフはこの年の全仏から翌1994年の全豪まで4大会連続でグランドスラムを優勝してみせるという、それ以上ない結果を残すことで自らの力を証明することになる。
グラフとの全米オープンでの決勝戦以降も、スコバは1998年までシングルスでのプレーを続けるが、この後スコバがグランドスラムのシングルスで4回戦以上のラウンドに進出することはなかった。
圧倒的だったライバルの支配力
オープン化以降、グランドスラムの決勝に4度出場して、引退するまでにグランドスラムのタイトルを獲得出来なかった選手は、今のところ男女を通じてスコバただ1人だけである。
女子ではクライシュテルス、男子ではレンドル、そして最近ではマレーがグランドスラム決勝に初進出してから4連敗を喫しているが、彼らはその後、グランドスラムのタイトルを複数回獲得して、ランキングNO.1にも輝いている。
ただ、スコバがツアーを戦っていた時代のライバルがあまりにも強大だったということには触れておかなければならないだろう。
スコバの最後の1勝をはばんだ、エバート、ナブラチロワ、そしてグラフの3人は、それぞれがテニス史でも有数の力を持っていただけでなく、立て続けにツアーに登場して来たために、同時代にプレーしていた選手はその影響を大きく受けている。
特にエバートが実力を残しつつも、ナブラチロワがグランドスラムを連続して勝つようになる1981年終わりの全豪オープンから、グラフがセレスというライバルを失いつつグランドスラムを連勝した1994年の全豪オープンまでの約12年は、この影響が極大だったと言えるだろう。そしてこの約12年は、スコバがツアーに参戦していた時期とぴったりと重なってしまう。
この間に開催された49回のグランドスラムでの優勝回数を数えてみると、エバートが6回、ナブラチロワが16回、グラフが15回、そしてここにセレスの8回を加えると、実に45回にも達する。
この間、この4人以外でグランドスラムのタイトルを獲得出来たのは、ナブラチロワよりも先にグランドスラムのタイトルを獲得していたチェコのマンドリコワ(1985年全米と1987年全豪)が2回、そしてグラフよりも年下になるスペインのサンチェス(1989年全仏)とアルゼンチンのサバチーニ(1990年全米)が1回ずつの3人だけである。
1954年生まれのエバート、1956年生まれのナブラチロワ、そして1969年生まれのグラフの支配力があまりに強かった結果、1960年代生まれでグランドスラムの女子シングルスのタイトルを獲得したのは、1962年生まれのオースチン、同じく1962年生まれのマンドリコワ、1968年生まれのノボトナ、そしてグラフ本人の4人しかいない。そしてスコバは、マンドリコワとノボトナの丁度中間となる1965年生まれである。
早熟選手の代表とも言えるオースチンは、ナブラチロワの連勝が始まる1981の全豪よりも前にグランドスラムのタイトルを獲得していて、その後グランドスラムの決勝戦に進出することはなかった。また、逆に遅咲きだったノボトナがグランドスラムを優勝するのはグラフのピークが過ぎた後の1998年のウィンブルドンだったので、1960年代生まれでエバート、ナブラチロワ、グラフを相手に回してグランドスラムのタイトルを獲得したのは実質的にはマンドリコワ1人と言っても良いだろう。そのマンドリコワも前述の通り、ナブラチロワがツアーを支配し始める前の1980年の全豪、そして1981年の全仏と、既にグランドスラムを2回優勝していたことが、その後の対戦でも大きな経験として働いたことは間違いないだろう。
このライバル達の圧倒的とも言える当時の支配力を考えると、頂点への挑戦権を4度も勝ち取ったスコバの強さが相当なレベルにあったこともよく分かる。残念ながらシングルスではあと1勝に届かなかったスコバだが、ダブルスの名手でもあったスコバは、ダブルスにおいては、グランドスラムのタイトルを4回のウィンブルドンも含めて、合計9回獲得している。
■ヘレナ・スコバ グランドスラム全成績(シングルス)全豪 | 全仏 | ウィンブルドン | 全米 | 全豪(年末開催) | |
---|---|---|---|---|---|
1981 | ベスト16 | ||||
1982 | - | 2回戦 | 1回戦 | 1回戦 | 1回戦 |
1983 | - | ベスト16 | 1回戦 | 3回戦 | ベスト16 |
1984 | - | 1回戦 | ベスト16 | ベスト8 | 準優勝 |
1985 | - | 2回戦 | ベスト8 | ベスト8 | ベスト8 |
1986 | - | ベスト4 | ベスト8 | 準優勝 | - |
1987 | ベスト16 | ベスト16 | ベスト8 | ベスト4 | - |
1988 | ベスト8 | ベスト8 | ベスト8 | ベスト16 | - |
1989 | 準優勝 | 2回戦 | ベスト16 | ベスト8 | - |
1990 | ベスト4 | 欠場 | ベスト16 | ベスト16 | - |
1991 | 3回戦 | 3回戦 | ベスト16 | 欠場 | - |
1992 | 3回戦 | 欠場 | 3回戦 | ベスト16 | - |
1993 | 欠場 | 欠場 | ベスト8 | 準優勝 | - |
1994 | 3回戦 | 3回戦 | ベスト16 | 欠場 | - |
1995 | 2回戦 | 1回戦 | 2回戦 | 2回戦 | - |
1996 | 3回戦 | 1回戦 | 2回戦 | 3回戦 | - |
1997 | 1回戦 | 2回戦 | ベスト16 | 1回戦 | - |
1998 | 1回戦 | 欠場 | 1回戦 | - | - |
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